東大寺で「社参」が終了したあと、本行の舞台となる二月堂の周辺では「注連撒き(しめまき)」と「注連掛け(しめかけ)」(「しめ縄張り」とも言います)が行われました。
これは修二会が行われる二月堂周辺を結界し、魔物の侵入を防ぐとともに清浄を保つ意味があるとされています。お寺なのに神道的なしめ縄を用いるのに最近の人は違和感を覚えるかもしれませんが、明治時代に神仏分離令によって神道と仏教が分離させられるまで、長い間日本では「カミもホトケもいっしょ」の神仏習合が一般的でした。今年で1270回目という歴史の長い修二会には今もその頃の名残があるんですね。東大寺の境内には至る所に神社がありますよ。
「社参」が終わり練行衆さんたちが去ったあと、二月堂の下ではしめ縄を掛ける場所で邪魔になる木の枝を切っていました。
何事もこうした見えない場所での下準備が欠かせませんよね。
午後2時半過ぎ、いつもより遅れてしめ縄を抱えた堂童子さんたちが奥から現れました。
実は二月堂の北側にある鎮守神のひとつ遠敷(おにゅう)神社でも、これに先立ってすでに「注連撒き」が行われています。
そしてこちら、二月堂南側にあるもうひとつの鎮守神、飯道(いいみち)神社でもしめ縄を供え、お祓いをします。
お祓いを終えたしめ縄を持って堂童子さんが向き直り、参道石段の上からしめ縄をホイ!
修二会を支える役割でいろいろな作業を担う童子さんたちが下で待ち受け、投げられたしめ縄をしっかり受け止めます。
いつもならしめ縄はバラバラで撒かれ、下では多くの童子さんが競って受け取る賑やかさがあるのですが、今年はコロナ禍で簡略化。
束ねたしめ縄を代表の童子さんが受け取るという形になり、あっけなく「注連撒き」は終了しました。
キャッチしたしめ縄を大事そうに抱えて戻る童子さんたち。
撒かれたしめ縄のうち、受け取れずに下に落ちてしまったものは「塵(ちり)」として処分されてしまうので、こうして受け取れたものは本来貴重で大切なものなんです。
これは後で練行衆さんの塔頭や関係者に分けられ、それぞれの門などに掛けられます。
撒かれるしめ縄は「輪注連(わじめ)」と呼ばれ、縄をぐるっと巻いた独特の形。
一本のしめ縄に神道にかかわる「紙垂(しで)」と仏教にかかわる「樒(しきみ)」の両方が挟まれているのが特徴です。ここにもかつての神仏習合の名残りを見ることができます。
続いて「注連掛け」へ。
こんどは長いひも状のしめ縄が持ち出されます。
まず向かうは二月堂。
二月堂南側の角の欄干にしめ縄の一方を巻き付けます。
万が一にもほどけたりしないよう、力いっぱいしっかりと結びます。
そしてもう一方は下の石段へ。
居合わせた人たちも興味津々で見守ります。
落とされたしめ縄の束を下で待ち構えていた童子さんがキャッチ。
いったん堂童子さんの手にわたり、向こう側の山門へと渡されます。
もう一方の端を山門の貫(ぬき)の部分に結びます。
脚立に乗っての高所作業でちょっと危険なので、ここでは再び童子さんが代わりに作業。
しめ縄を張るのは二月堂だけではありません。
続いては通称「裏参道」へ。
中性院(ちゅうしょういん)近くの参道に竹竿を立ててしめ縄を張ります。
どうやって道に竹竿を立てるのかと思ったら、あらかじめ専用の穴が作ってありました。
もう一方の端を反対側へ。
堂童子さんもはしごを押さえてお手伝い。
ピンと張って完了です。
さて「注連掛け」はまだ終わりではありません。
続いて向かうは三昧堂(さんまいどう=四月堂)。
三昧堂横にある警備詰所の屋根の下に一方を取り付けます。
もう一方の端は参道を挟んで反対側の茶屋の建物に渡していきます。
ここにはちゃんと取付金具がついてるんですね。
堂童子さんが見守る中、しっかりと張って取付完了。
ここから奥も結界となります。
修二会期間中の結界は厳格で、例えば服喪中の人は東大寺の関係者であってもこの中へ立ち入ることは許されません。
私たち一般の参詣者までチェックされるわけではありませんが、ちょっと心の片隅には留めておきたいことですね。
ただ、修二会最終日となる14日の夜に練行衆さんたちが上堂された後はこれらのしめ縄が外され、結願前の一夜だけ誰でもが一緒に観音様に祈りをささげられるようになります。ここが仏様の優しさでしょうか。
ところでまだ最後の「注連掛け」が残っています。
残るは法華堂(ほっけどう=三月堂)前の石燈籠。
この石燈籠にはてっぺんにくぼみが彫り込まれており、そこに輪注連を結び付けます。
こうして二月堂周辺の4か所にしめ縄が掛けられ、本行の清浄が守られます。